第七話「見えない恐怖」

地下室に井戸があるというだけでも充分異様なのだが、その井戸はさらに深く深く続いていた。
地上の明かりが遠ざかって、足元の感覚だけを頼って縄梯子を降りていく。先に降りた櫃が時折声をかけてくれるのでなんとかお互いに間隔を保ちながら進むことが出来る。
これがもし一人だったらと思うと白奉鬼はぞっとした。こんな底の見えない狭い穴の中に一人でいたら気が狂ってしまいそうだ。

「櫃さん、これ…どこまで続くんですか?」
「もうちょっとっすよ。あ、それと呼び捨てていいよ。敬語とか正直疲れるし、俺ら年近そうでしょ?この世界で年とかあんまし関係ねーすけど」

年齢はあくまで見た目から推察したものに過ぎず、ここは死後の世界なので何年経とうがその姿が変わることはない。そのことを喜ぶ者がいるのだろうか。

不老といえばたしかに聞こえはいいが、白奉鬼には自分が死んでいることの何よりの証明に思えてならなかった。

「地面に足着いたっと。白奉鬼くんもそのままゆっくり降りてきて」

言われた通り数歩降りると、柔らかい地面らしき感覚が足に伝わってきてほっと息をついた。
相変わらず周囲は明かり一つなく目隠しされているかのごとく闇に包まれている。

「そういえば灯篭とか持ってきてないけど櫃は?ある?」
「ないっすよ」
「えっ!?」

どうするんだ、このままでは暗闇の中を手探りで進むことになる。
今ならまだ梯子を伝って上に戻れるが、櫃はこのまま先に進むつもりのようだ。

「いやいや!これじゃ何も見えないよ!?」
「大丈夫だって。ほら、この紐持って」

突然左手を握られて、太くて丈夫そうな紐を手渡される。それだけでも体がビクッとなった。

「そんなビビんないでよ、俺までびっくりするじゃないっすか」
「だ、だって…何も見えないし」
「まあいーや。その紐長いから、鳥喰さんにも持ってもらって」

簡単に言うが、一言も喋らない鳥喰の位置などわかるはずもない。
白奉鬼は勘を頼りに手を伸ばして探ってみるが何もない空間を掴んだだけだった。

「ここだ阿呆」
「いてっ」

見当違いのところを探っていたようだ。
全く違う方向から棒のようなもので頭を叩かれた。

「だから神器をそういうことに使うなって!」
「よく神器だとわかったな。褒めてやる」

今朝食らったばかりの感触を忘れるものか。白奉鬼はふん、と鼻を鳴らす。
鳥喰の嫌がらせに辟易しながらも、紐を渡した。

「そんで紐を俺にくくりつけて、っと」

櫃に括りつけられた紐を白奉鬼と鳥喰が持って進む。なるほど、確かにそうすればこの闇の中でも全員同じ方向に進める。しかし白奉鬼にはあの疑問が消えぬままだ。

「なんで明かり点けないの?」
「当然、塵が寄ってくるからっすよ。なんでか、ここの塵は音にも魂にも反応せずに光に集まる習性があるみたいで。一説によると、光が届かない場所だから性質が変わったとか。この道自体使う人が少ないんで、正確なことはわかってないんすけどね」

やはりここにも塵が出るのか、と白奉鬼は肩を落とす。
塵と闇は切り離せない関係のようだ。塵も闇も、人の心に影を落とす。
そんなものを崇める団体がいるなど信じられない。

「よし、出発するっすよ」

櫃が歩き出すと紐がグンッと前に引っ張られる。白奉鬼は「うわっ」と足がもつれそうになりながらも何とか歩き出した。

「あれ?そういえば櫃は見えてるの?」
「いや。真っ暗で見えないのが残念だけど、俺の神器が道案内してんすよ」
「櫃の神器が!?すごいね、もしかしていつも担いでる大きな箱?」

櫃はいつも人が一人入りそうな大きな木箱を持ち歩いている。
そんな荷物をなぜ肌身離さず持っているのか不思議に思っていた。

「神器だし、疲れたときは椅子代わりにもなるし、結構便利なんすよね」
「(粗雑に扱う人多いのかなぁ…)」

神が作り出した奇跡の芸術品とも言われる神器が、まさか椅子や棒切れのように扱われいるなどと誰も思うまい。いつかバチが当たらないといいのだが。

「ちゃんと道は合ってるのか?ぽんこつ神器じゃないだろうな」

やっと口を開いたかと思えば悪態をつく鳥喰。
櫃は「大丈夫大丈夫ー」と表情は見えないので想像だが呑気に笑っている。

「(本当に辿り着けるのかな…?)」

と若干の不安を抱えながらも、着実に足を進めていった。


◆◆


―どれくらい進んだだろうか。

ひたすら暗闇の中を櫃に(正確に言えば櫃の神器に)引っ張られながら進んできたが、
出口らしき光も見えずただ闇雲に歩き回っているだけのような気がしてならない。
そんな白奉鬼の懸念をよそに、背後を歩く鳥喰は「ふああ」と欠伸をするような声を漏らした。

「ね、ねえ。疑うわけじゃないんだけどさ、本当に神器が道案内してるの?その、どうなってるのか見えないから不安で…」
「大丈夫だって、白奉鬼くんは心配性っすねえ。なに?怖いなら手でも繋ぐ?」
「いやいいよ…」

冗談を言う余裕があるということは、当てもなく歩いているわけではないようだ。
それでも胸騒ぎは消えない。実はすでに塵に囲まれているんじゃないか?と考えると背筋がぞくっとする。何とか気を紛らわせなければ、と白奉鬼はふとあることを思い出して尋ねた。

「飛鳴小ちゃ…申組のもう一人の子は?」
「店長と治癒師ちゃんに頼まれて店番やってたみたいっすよ」

あの飛鳴小が店番!?
いや、その前に枯不花の言う友達とは飛鳴小のことだったのか。知り合いではあるようだったが、勝気な飛鳴小と内気な枯不花が友人とは、意外な組み合わせだと思った。

「っ!」

突然、櫃が立ち止まった。急なことだったので白奉鬼は歩く勢いのまま櫃が背負う木箱にぶつかり、「ふぎゃっ」という間抜けな声を出してしまった。

「ちょっと、止まるときは言ってよ」
「…白奉鬼くん、なにか光るもの持ってる?」
「へ?とくに持ってないけど」

酉の町に来るときに持ってきた大きな荷物は宿屋に置いてきた。
今は、せいぜい着物の袖の袂に忍ばせられる程度の小物しか持っていない。

「さっきから塵の動きが変なんすよ。明かり点けてないのに集まってくるっていうか…」
「塵が見えてるの!?この暗闇の中どうやって!?」
「それは俺の神器のおかげ。コイツは夜目が利くし俺と感覚を共有できるんすよ」

こいつ、と言われても何も見えないので納得しようもないのだが、今はその言葉を信じるしかない。どうやら手元にこの井戸の中の塵を吸い寄せるものがあるらしいのだ。
誰が持っているのかはわからないが、このまま持っているのは非常に危険だ。白奉鬼は袖の中に手を突っ込み、ごそごそと探し始めた。

「ん~…やっぱり無いよ。そもそも物なんてほとんど置いてきたし」
「そうっすか…まあ、もうすぐ出られると思うんでこのまま行きましょう」

再び歩き出した三人。
先ほど櫃は夜目が利くと言っていたが、白奉鬼の目はいつまで経ってもこの暗闇に慣れることは無かった。闇が深すぎて人の目では限界なのだ。井戸に入る前、コツがあると言ってたのは櫃の神器ありきの話だったのかもしれない。

「待て」

一声とともに、またしても三人は足を止める。しかしそれは櫃が立ち止まったからではない。最後尾を歩いていた鳥喰が、紐を引いたからだ。

「何だよ鳥喰、もうちょっとで着くんだから…」
「駄目だ。白奉鬼、袖に入ってる物出せ」
「は?」

何を言い出すかと思えば、光源となるものを持ってないことは確かめた。
訳が分からないまま立ち尽くした白奉鬼の袖口を鳥喰がぐいっと引っ張り、手を突っ込んだ。

「うわっ!?やめろよ気持ち悪い!」
「言ってる場合か……」

思わず鳥肌が立つ。見えないというだけでこんなにも気分の悪いものだとは。
それにしてもこの暗闇で鳥喰はよく的確に袖口の位置を掴んだものだ。と、半ば感心しつつ、なされるがまま反対側の袖口まで探られた。

「こいつは…」
「ん…?微かに光ってるっすね。鳥喰さんそれ何すか?」

本当に目を凝らして見なければわからない弱弱しく微細な緑色の光だ。
白奉鬼は驚く。それを放っていたのは、

「この袋…薬だ!障りを治す薬が入ってる!」
「薬?そいつに光る成分が入ってるってことっすか?」

塵という得体の知れない生物との接触時に受ける傷”障り”。それを治す薬もまた、未知の物体や決して人体には使われないような成分が入っていてもおかしくはない。組成が何であろうが、障りを治すという効能の前には些細な問題だ。

だがしかし、今この場においては死活問題となりうる。

「も…もうすぐ着くんだし、ここまで何ともなかったんだから大丈夫だよ!」
「いや捨てていけ。出入り口付近の塵はとくに光に敏感で危険だ」
「でもそれじゃあ戌町の人が…」

備蓄している薬が無くなれば戌町の住人は怯えて暮らすことになるだろう。
すでに障りを受けている者はその苦しみに耐え続けねばならないし、巨大な塵が暴れまわってさらに被害が拡大しているかもしれない。誰もがこの薬の到着を心待ちにしているはず。

「このまま無事に辿り着けても…そんなの意味ないよ…」

白奉鬼は唇を噛みしめ、俯いた。
とそこへ、先ほどから「うーん」と深く考え込んでいた櫃が声を上げた。

「ぶっちゃけ賭けになるっすけど、少しでもそれを運ぶ方法ならあるっすよ」
「…!」

即座に「どんな方法!?」と聞き返した。

「半分を俺が持って、もう半分を白奉鬼くんと鳥喰さんが持つんすよ。で、そのまま出口に向かって全速力で走る。塵はちょうどよく二手に分散されるか、運が悪けりゃどっちかに集中するでしょう。数で押されちゃ神器でも対処できない。そうなりゃ一方は確実にお陀仏っす」

それは消滅の危険をはらむ賭けだ。

そしてその危険が最も高いのが自衛手段のない白奉鬼。

だがここで諦めるわけにはいかない。白奉鬼は覚悟を決めた。

「どうしても届けたいんだ」
「…了解っす。じゃあ半分薬もらいます」

櫃はザラザラと紙袋のなかから薬を出し、半分を自分の懐にしまった。

「ごめん櫃…本当ならこんな危ない橋を渡る必要なんてなかったのに…」
「良いんすよ。塵には大切なモノ奪われっぱなしなんでね、今度こそ守り通してみせる」

こんな世界に住んでいれば、誰しも塵にまつわる辛い過去を持っている。
櫃もその例外では無いようだ。いつもの櫃とは違う、やや低く力のこもった声だった。

「鳥喰も…」
「薬を持ち帰らなきゃ報酬が貰えん。とっとと終わらせるぞ」

うん、と白奉鬼は頷いたが、そんなものは建前に過ぎないことは明白だった。
戌町の状況如何では報酬を支払うどころではないし、貰えたとしてこの道のりに見合う報酬とは言えないだろう。そもそもそのために倒れては元も子もない。
口ではああ言うが、鳥喰は決して損得勘定のみで動いているわけではないのだ。

「合図したら走り出すっすよ!このまま真っすぐ進むと石階段があるんで、とにかく全力で駆け上がってください」
「来るときは井戸だったけど、今度は階段…」

つくづく不思議な世界である。しかし縄梯子よりは足元が安定して登りやすい。
白奉鬼と鳥喰は念のため一本の紐をお互いの手に巻き付けてはぐれないようにする。
シャッと鞘から刀を抜く音が聞こえた。鳥喰の大太刀が塵に対して振るわれる様を見れないのが少し残念だ。

「行くっすよ…三、二、一…」

「今だ!」と櫃が飛び出すように声を発し、三人は一斉に地面を蹴って走り出した。
進行方向を間違えぬよう、櫃が「そのまま行ってくださいっす!」と少し離れたところから叫ぶ。

「いる…!」

姿は見えない。だが塵の気配のようなものが感じ取れた。
紐の張り具合から鳥喰がすぐそばに居ることを確認し、

「僕の後ろにたぶん塵がいる!」
「…!」

鳥喰は走りながら刀を振ったが手ごたえは無かった。
白奉鬼のだいたいの位置は把握しているが、動いているため正確な位置まではわからない。誤って白奉鬼を両断しないように力を抑制せねばならず、思い切り振ることが出来ない。
「チッ…」と舌打ちし、紐をぐいと引き寄せると、白奉鬼を小脇に抱え上げた。

「うぇっ!?ちょ、苦し…」
「おい、塵はどこだ」
「たぶん右!」

右にぶんっと刀を振る。何かを掠めた感触があった。

「ここの塵、蝿みたいに速い…!このままじゃ追いつかれるよ!櫃、出口はまだなの!?」

抱えられ、鳥喰が走る振動で若干気持ち悪くなりつつも、声を張り上げる。
返答がない。先ほど櫃が話していた最悪の事態が頭をよぎった。

「…もうすぐだ!行け―ッ!」

遥か後方から櫃の掠れた声が聞こえた。

「鳥喰…櫃が…!!」
「……」

鳥喰は一瞬も躊躇うことなく進んでいく。聞こえなくなった櫃の声、彼を巻き込んでしまったという後悔が白奉鬼を苛んだ。直後、地面から伝わる感覚が変わり、階段がある出口付近まで来たことがわかった。この辺りは少しだけ目が見える。うっすらと石階段の影を発見し、鳥喰はそのまま登りだした。

「階段くらい自分で登るから下ろしてよ!」
「…戻る気じゃないだろうな?」
「戻らない…よ。櫃の思いが無駄になる…」

そう言った白奉鬼の肩がかすかに震えているのを感じた。鳥喰はぱっと手を放して白奉鬼をその場に落とすと、

「お前の判断は間違ってない」
「…え?」

目も合わせず吐き捨てるように言って走り出す。
どのことを言っているんだろう?と白奉鬼は走りながら考えた。櫃を助けに戻らなかったことか、この作戦を選んだことか、抜け道を使うと言い出したときか、それよりもっと前か…。
そのような言葉が鳥喰から聞けるとは思わなかったが、自分の選択が本当に正しかったのかと幾度となく葛藤していた白奉鬼にとって、わずかばかりの救いとなった。

「ハア、ハア…光が見える!出口だ!」

息を切らし、光の方向を指さす。足はもう限界に近い。だが立ち止まることも速度を緩めることも出来ない。わずかに漏れ出した光が暗い海に浮かぶ灯台のように輝いている。あと少し、そう自分に言い聞かせて歯を食いしばった。

バンッ

勢いよく観音開きの扉を押し開くと、雲一つない夜空に満月が浮かぶ、静まり返った町の姿があわられた。てっきり、町は恐慌状態になっているとばかり思っていたため、それは目を疑う光景であった。

「静かだ…巨大な塵も、人もいない…」
「妙だな」

白奉鬼は周囲をきょろきょろと見回し、鳥喰は眉をひそめた。

「もしかして、巨大塵が出たのは戌町じゃなかったんじゃ…?」
「それはない。お前だって見ただろ」
「うん…」

阿鼻叫喚をきわめる町の姿。有坂率いる戌組の姿。間違いなくこの町だ。
ならばこれはどういうことだ?白奉鬼は首をかしげながら唇をぎゅっと結んだ。

「櫃がいれば何かわかったかな…」

 

思わず目頭が熱くなった。


バンッ!

突然、後ろの扉が開き、ハッとして振り向く。

扉から出てきた人物を見て、胸が詰まるような思いがした。

「え、嘘…櫃!?」
「なんすかその顔ー。もしかして塵に喰われたと思った?」

こくこくと両目を見開いて数回頷いた。
すると櫃は「ひゃはははは!」と笑い声をあげた。

「俺に構うな、先に行けッ!みたいな?ははは!確かに、その方がかっけーっすけどね!」
「笑い事じゃないよ…!本当に悲しかったんだから!」
「はいはい、そりゃどーもっす」

ひとしきり笑いこけたあと、櫃はふう、と息をついて肩をすくめた。

「まあ、正直やばかったっすけどね。神器がなきゃ今頃あの世っす」
「うん。ここもあの世だけどね…とにかく、無事で何よりだよ」

白奉鬼は心底安心したように笑う。
何か思いついたのか、にやりとした櫃は一人無言で無表情な鳥喰のほうを向くと、

「鳥喰さんも心配したっすか!?あ、もしかして泣いちゃったりしました!?」
「……」

いつもからかう側の鳥喰がからかわれている。白奉鬼は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
数秒後、櫃は調子に乗るなと言わんばかりに鞘で腹部を突かれていた。

「ところで櫃、この町の状況どう思う?」
「…えーと。意外っすね」
「……だよね」

櫃にもわからないようだ。
果たして、戌町で一体何が起こっているのだろうか?
三人は不気味な夜の町を歩き出した―。