第十二話「目を覚ました男」

「いらっしゃいませ。それでは、こちらのお着物を仕立て直しで。お預かりいたします」
すっかり慣れた様子で、爽やかな笑顔を浮かべながら白奉鬼は応対した。

冠俚の店を手伝いながら二木が回復するのを待つこと、早二週間―。
二木は相変わらず悪夢にうなされるように顔を歪ませ、床に臥せっている。白奉鬼は二人分の宿代を稼ぐべく、冠俚の仕立て屋を手伝いながら他に仕事がないか探していた。
「買い出しのついでに役場の掲示板でも見てこようかな…」

亥の町の役場にはまだ行ったことはないが、以前多麻に連れられて戌の町の役場に行ったとき、掲示板に求人のビラが貼ってあったのを思い出した。買い出しは二人分の食料と障りの痛みを和らげる薬を十日分。薬屋までの道のりで役場を通るので、寄り道せず立ち寄ることが出来る。白奉鬼は「よし」と意気込んで、店番を冠俚に代わってもらおうと二階へと繋がる階段に足をかけたとき―、

「うわっ…!!」

上からそんな声がしたかと思えば、次の瞬間にはゴロゴロと階段から転げ落ちる物体に巻き込まれて、白奉鬼の体は後ろ向きに押し倒されていた。後頭部を強打して目が眩む。白奉鬼を押し倒した何かは、勢いを無くして白奉鬼の上にのしかかっていた。

「いってて…」
「ふ、二木!目が醒めたの?」

派手な金髪が目の前でキラキラと煌めく。二木は目をパチパチさせながら、白奉鬼を見つめた。そして我に帰ったように大きく目を見開いた。

「おま…え!あん時のガキ!なんでお前が俺の家にいるんだ?いや、待て待て…オレは闇喰教に捕まったはず…」

覚醒して間もないからなのか、階段から転げ落ちたときに頭でもぶつけたのか、二木は現状が分からず混乱している様子だ。眉間をつまんで「うーん」唸り始めた。

「お、落ち着いて。ここは亥の町で冠俚って人の家なんだ。僕が二木をここまで運んできたんだよ」
「は?亥の町だと?なんでお前がオレを?」

二木は何もかもが信じられないような疑いの眼差しを向ける。

「それはその…二木が“夏音”って人を助けようとしてあんなことをしたんだってわかったから、塵の中から引っ張り出してここまで逃げてきたんだよ」

白奉鬼の口から“夏音(なつね)”という単語が発せられた瞬間、二木は瞳孔を見開いた。

「その名前どこで知りやがったッ!闇喰教の奴らから聞いたのか!!」
「そ、それは…っ!二木が…ッ」

胸ぐらを掴まれた白奉鬼は息が詰まりそうになりながらも必死に宥めようとする。だが二木の激昂は止まらない。

「うぐっ…」

白奉鬼が苦しそうに声を出す。二木を牽制しようと神器に手をかけたちょうどその時、
「アンタたち仲間じゃなかったの?」

物音を聞きつけ、階段の上から冠俚が顔を覗かせた。手には、仕立て道具と思われる長い木の物差しが握られている。冠俚は何食わぬ顔で階段を降りてきたかと思うと、手に持った物差しで勢いよく二木の頭を打ち付けた。

「っだ…!何すんだてめえ!」
「アンタこそ人の家で何騒いでんのよ。犬みたいにキャンキャン吠えてないで少しは冷静になりなさい」
「…!」

階段を二段ほど上がったところから腕組みをして見下ろす冠俚を、二木はゴクンと唾をのみ、まじまじと見つめた。すると突然、白奉鬼から手を放してスッと立ちあがり、冠俚の手をとった。

「貴女のような美しい女性が家主とは知らず…大変失礼いたしました」
「え?な、なんなのアンタ…。ていうか白奉鬼に感謝しなさいよ。意識が朦朧としてたアンタをここまで運んできたんだから」

後ろに押し倒された状態のまま、呆気にとられている白奉鬼を、怪訝な目で見下ろす二木。

「わかんねぇな。どうしてオレを助けたりなんかしたんだ?もう、わかってるだろ。オレはお前を騙したんだぞ?」

二木の混乱は、目の前にもっとも意外な人物である白奉鬼が現れたということも大きかったのだろう。あの晩どうやって生き延びたのか、なぜあんなことをした自分を助けたのか。様々な疑問が押し寄せる。

「覚えてないかもしれないけど、さっきの“夏音”さんのことは二木から聞いたんだよ。事情を知らなかったら助けなかったかもしれないけど、全部知っちゃったから…」
「オレが話しただと…?」

そんなはずはない、と二木は必死に記憶を辿ろうとする。しかし、深く霧がかかったかのように、ある時点からの記憶が曖昧になっていて思い出せない。そんな歯痒さからか、二木は「チッ」と小さく舌打ちした。

「白奉鬼、何があったか全部教えてくれ。それでオレが言うのもおかしいが、絶対に嘘はつかないでくれ」

強い意思を持った瞳で、二木は白奉鬼をじっと見て言った。白奉鬼は「うん」と首を縦に降って、ゆっくりと立ち上がった。


◆◆


二人が寝泊まりをしている四畳半の部屋に、対面して座る白奉鬼と二木。二木は目をそらしながら、あぐらをかいて座っている。
二木の身に何があったのか、白奉鬼にそれを知る由はない。なので申の町にかつて巨大な塵が現れたこと、そのなかにも人が囚われていたこと、常闇の道が封鎖されて井戸を通って戌の町へやってきたことなどを話した。

「塵のなかに人が?信じられねえ話だな」
「僕も聞いた話だから最初は信じられなかったよ。だけど今回は戌の町で…」

うつむいた状態から、ちらりと二木に視線を向ける。人の視線に敏感な彼はすぐさまその視線を感じ取って、鬱陶しげにため息をはいた。

「オレがその巨大な塵のなかに居たってのか」
「う、うん…」
「それで間抜けなお前は仲間に売られてオレに喰われたわけか?」
「違うよ。僕はただ…戌の町を救いたかったんだ」

「ほー」と二木は目を細める。

「そりゃ、殊勝なことだな。救った町の連中やオレから感謝されたかったのか?悪いがオレは感謝なんかしてねえぜ。そこまでして救われる価値もねえからな」

口の端を上げて嘲笑うかのように言った。
しかし白奉鬼はその心の奥を見透かして同情するように表情を曇らせた。

「価値がないなんて、そんなことはないよ。少なくとも二木は、夏音っていう人のために入りたくもない闇喰教にまで潜入する良い人じゃないか」
「あれだけ多くの人間を犠牲にしてきたこのオレを、良い人とはな。夏音はな…オレのせいで障りを受けた。オレが地獄に落としたようなもんなんだ。この世界とオレを死ぬほど憎んでるんだよ」

そう言いながら拳を強く握りしめ、唇を噛み締めた。すると白奉鬼は、手首に巻いた包帯をほどいて見せた。そこには火傷のような痛々しい障りの痕がある。

「見て、これは二木が掴んだ痕だよ」
「!!…クソッ!!オレはまた…!」

傷痕を見て二木は、悲痛な声を漏らし、両の手で頭を抱えた。まるで以前と同じ悲劇を繰り返してしまったかのように。

「これは僕が生き延びた証だよ。憎んでなんかいないし、感謝もしなくて良い。僕が望んでやったことだから。自分の傷は自分の責任だよ。二木のせいで起こったことなんて一つもないんだ」

今回の一件で、白奉鬼はようやく自分の甘さを理解していた。誰も他人の命に責任を持てない、自分を救えるのは自分だけ。だからもう誰彼構わず救おうなどとは考えていない。それでも大切な人や、目の前で困っている人がいれば手を差しのべるだろう。救える命には限りがあり、人は自然とその命に優先順位をつけている。それは仕方のないことで、見捨てられるような者はそれだけの価値しかなかったということ。
白奉鬼はにこっと微笑んでさらに続ける。

「それに正直言うと二木を救えたのはたまたまなんだ。あのときの僕は、塵のなかから出るので精一杯で、どちらかというと自分が助かりたい一心だったからね。だから二木は僕に恩を感じる必要もないんだ」

ポンポンと肩を叩くと、二木は呆然とした顔で見上げた。自分が騙した無知で無垢な少年が、まるで別人のように作り笑いを浮かべたからだ。

「お前、変わったな。今のお前だったらあのとき騙されなかったかもな」

肩に置かれた白奉鬼の冷たい手を振り払い、二木は皮肉っぽく笑った。白奉鬼は「どうだろう…」と視線を落としたあと、

「僕らは幽霊みたいなもので、この世界に必要とされているのかもわからないけど…一緒に探そう。僕らの居場所を」

障子窓の外にカラスが飛んでいるのを見ながら言った。我が家と呼べる家がなく、自由に飛べる翼もない二人は、ただ傾いていく太陽に祈った。明日こそは、希望がありますようにと。


◆◆


冠俚は不安げに天井を見つめていた。いわくありげな二人の居候は、部屋にこもって早三時間。目覚めた金髪の男からは何やら危険な香りがした。白奉鬼に関してはこの二週間で人畜無害だと確認できたが、果たしてあの男と二人にして良かったのだろうか?
いてもたっても居られなくなった冠俚が二階へと上がろうとしたとき、

「冠俚さん、すみませんお店手伝えなくて」
「!」

白奉鬼が階段から降りてきていつもと変わらぬ顔を見せた。その表情は明るく、冠俚はホッと胸を撫で下ろす。その白奉鬼の後ろから、もう一人の男が姿を見せた。

「アンタもう大丈夫なの?」
「もちろんですよ。な?白奉鬼くん」

二木に肩を組まれ、白奉鬼は苦笑しながら頷く。

「えっと、体はもう何とも無いみたいです。さっきまではちょっと混乱してたみたいで、説明したのでもう大丈夫ですよ」
「ならいいけど…」

冠俚はまだ疑わしげに二木をジロジロと見つめる。

「オレに興味がおありで?美しい御姉様」
「そうね、言葉は通じるみたいだけどその派手な頭…異国の人かと思ったわ」
「人種なんて些細な問題ですよ。美しい女性は世界共通です」
「ハァ…やっぱり何言ってるかわかんないわ」

せっかくの美しい金髪も口を開けば台無しである。軟派な二木の態度に呆れながら、冠俚は割烹着を脱いで壁にかけた。

「夕食出来てるわよ。並べるの手伝いなさい」

白奉鬼が手際よく食器を棚から出し、冠俚が釜に炊いた白米をよそい、二木が卓袱台の上に並べた。ホカホカの白米から立ち上がる湯気を前に、二木はゴクンと唾を飲んだ。今朝まで床に伏せていたから食欲は沸かなかったが、おこげの匂いや焼き魚の芳ばしい香りに涎が出そうになる。

「い、いただきます…」

使いなれない箸を不格好に掴んで、ひと口ほどの米を口に運ぶ。それを噛み締めると、歯からじんわり温度を感じ、甘みが口のなかに広がった。

「うめえ…」
「それはどうも。お箸の持ち方は知らないの?ほら、こうやって持つのよ」

二木の手を取って、正しい持ち方に誘導する。二木はハッとする。前にもこうして誰かに教わったような、懐かしい感覚に襲われた。

「二本の木の棒で飯を食べようなんて、誰が考えたんだろうな…」

ぼーっと箸を見つめながら呟いた。

「あはは。確かにもっと食べやすい形にすれば良かったのにね」
「ん、まあそうだな。オレはこれも嫌いじゃないけどな」
「そうなの?名前が二木だから?」
「あん?ちげえよ、なんつーかこう…懐かしい感じがするんだよ」

生前の記憶など無いが、このちっぽけな二本の棒が自分と深く関わりがあるような気がしてならなかった。その様子を見ていた白奉鬼も箸を見つめて、先を開いたり閉じたりして動かしている。

「僕らって、もう死んでるんだよね。考えないようにしていたけど、生きていたときの記憶とか何もなくて、それでも僕って言えるのかな…?」

二木と冠俚は目を丸くした。楽しい食卓に似つかわしくない話題が飛び出したからではない。いつも前向きな白奉鬼がそんなことを口走ったからだ。二木が適当に話を受け流そうと口を開きかけたのを、冠俚が手で制止した。

「どうかしら…難しい問題だわ。別人とも言えるかもしれないわね、それでも今の私は私よ。だから私は、死んだんじゃない。この世界で生まれ変わったんだと思ってるわ」

白奉鬼を真っ直ぐに見つめながら。
その言葉を聞いた白奉鬼は、

「僕は生まれ変わった…そうか、そうなんだ。僕は僕で良いんだ」

と納得したように頷いて微笑んだ。冠俚もにっこりと笑い返す。二木はフン、と鼻を鳴らしつつもどこか満足げに箸を進めた。

「食べ終わったら今日お店手伝えなかった分の仕事手伝います」
「いえ、今日はいいわ。それより明日は朝から白奉鬼に行ってほしいところがあるから、早く寝てちょうだい」

白奉鬼は首をかしげる。買い出しはいつも客足が落ち着いた昼過ぎに行うからだ。

「亥組からの要請よ。あなたの神器を見せてほしいそうなの。どこから聞き付けたのかしら…」

「はあ」と白奉鬼は歯切れ悪く返事をした。白奉鬼の神器は、戌組の扇規や天守のような見た目も派手で、効果が分かりやすい神器ではない。向こうが望むようなものを提示できるかという不安からである。
一方、冠俚は胸に疑惑を抱いていた。白奉鬼が神器を持っていることを、冠俚は誰にも話していない。あの懐にしまっている小刀を神器と見破れる客はいないだろう。ならば誰が、なんの目的で白奉鬼が神器持ちだと知り、明かしたのだろう。

「なんだよ、白奉鬼くん明日いねえの?」
「あ、うん。そうみたい…二木に色々教えようと思ってたのに」

「教える?」と二木は頭の中に「はてな」を浮かべる。

「仕事。僕ら居候させてもらってるから、お店を手伝ったりして宿泊代にしてるんだよ」
「なに!?お前一文無しで上がり込んだのかよ!」
「仕方ないだろ。戌組に見つからないように二木を担いで真っ直ぐにここまで来たんだから…」

批判的に声をあげる二木をしらけた目で睨む。
その横で、冠俚はにやりと不敵な笑みを浮かべて

「白奉鬼はすごく働き者で助かったわねえ。明日は代わりに誰かが働いてくれるとすごく助かるんだけど」

二木は焦ったように顔をひきつらせたが、二人に期待の眼差しを向けられて観念したのか、肩を落として手を上げた。

「オレが白奉鬼の分も働きます…」
「ふふ。ありがとう、期待してるわ」

およそ接客など向いていなそうな二木が、必死に笑顔を振り撒いて働く様を見たかったと少し残念に思う白奉鬼であった。


◆◆


夕食を終え、白奉鬼と二木は自室に戻って天井を仰いでいた。外は深い闇と静寂に包まれている。明日は亥組の隊員が迎えに来るらしい。同じ見廻り隊なのに、亥組と戌組ではだいぶ評判が違うようだ。亥組は町の英雄、清廉恪勤で信頼を寄せられている。有坂のような人物はいない、と信じたい。白奉鬼は期待と不安でなかなか寝付けずにいた。

「安心しろよ。店の方はオレがちゃんとやってやる」

隣でそわそわしているのを察知したのか、二木が声をかけてきた。白奉鬼はしばらく二木のほうに視線を向けた。すると二木は「さっさと寝ろ」と言わんばかりに背を向けてしまった。

「…ありがとう」

寝付けない理由とは違ったが、二木がやる気になってくれたのは正直嬉しかった。犬の塵に喰われたとき、本当に消えるんだと思った。今も目を瞑れば、そのまま無に帰してしまうんじゃないかと思うことがある。二木もその恐怖を味わったのではないだろうか。そして生きたいと思った。だからこそ白奉鬼の手を掴み、生にすがり付いたのだ。

「生きている証か…」

白奉鬼は手首の障りの痕を見ながら言った。この傷と痛みは、自分がこの世界に存在していることを確かめる証になる。自分は生きている。少なくとも今はそう思うことで、白奉鬼は安心を手に入れられた。そのままつかの間の安息に身を委ね、白奉鬼は深い眠りについた。