第五話「過去の出来事」

ぽつ、ぽつ、と雨粒が瓦屋根にぶつかる音が聞こえ始めた。
雨というものがどんなものかは知っているのに、その音を耳で聴くのはこれが初めてというような、ひどく変な気分だ。
そんな心のざわめきも相まって、白奉鬼は緊張したように奥歯にぐっと力を入れた。

「そんな緊張なさらないでくださいませ。大層な話ではありませんのよ」

彼の緊張が伝わったのか、多麻は苦笑している。

「だって…あの矢的って人と鳥喰がいがみ合ってる理由でしょ?何かとんでもない理由があってそうなったとしか」
「いがみ合ってはいませんわ。矢的さんが一方的に嫌っているだけで鳥喰は…」

といって口をつぐんだ。考えてみればあの「怠惰が服を着たような男」が人を嫌うなどありそうもない。
なんだ、いがみ合ってはいないのか。白奉鬼はホッとしたように体の力を抜いた。

「白奉鬼くんは争いごとが嫌いなのですわね」
「うん…なんでかな、争わないで済むならどんなに大変な目にあってもそっちが良いって思うんだ」

これが今の自分の意志なのか、生きていた頃の残滓なのかはわからない。
だが白奉鬼の行動原理はすべてそこにあった。甘い考えと言われようが変えるつもりはない。

「どんな目にあっても…あの方もきっと、そう思われたのでしょうね」

多麻は視線を落としてそうつぶやくと、静かに語り始めた。


◆◆


―あれは五年ほど前。その頃はまだ、申町にも見廻り組があった。
多麻が申町を訪れたのはちょうど、今回のように町と町をつなぐ”常闇の道”が突然通行不能になったときであった。

「困りましたわ。早く町を出ないと…」

当時の多麻は一部には名の知れた義賊だった。
裕福なものから財を盗み、貧しいものに分け与える。独善的で浅はかな行為だ。
いずれは粛清されるものと覚悟していたが、それがまさにこの日だったのだ。

「お前が多麻…大浦邸から金品を強奪した賊だな?」

多麻にお縄を頂戴しにやって来たのは、眼鏡をかけたいかにも堅実そうな男。

のちに飛鳴小と櫃を率いて申組の隊長となる、矢的だった。
このときの矢的はまだ申組の一兵卒に過ぎなかったが、滲み出る正義感は今と変わりがない。
白い隊服に身を包み、身丈ほどもある大きな弓矢を担いでいる。

「ふふ、申組ですか。お早いですのね」
「…?なにがおかしい」
「だって、こんなコソ泥一人捕まえようとアナタはやって来たのでしょう?町は恐慌状態でそれどころではありませんのに。お猿さんの考えることは面白いと思ったのですわ」
「な…に…!」

カッとなって瞳孔を見開いた矢的を、多麻はなおもクスクスと嘲笑って見せた。
ここで矢的に拳を上げさせ、一騒ぎ起こしたスキに逃げ出す。そのような企みであったが、

「賊の言葉に振り回されるな」
「た、隊長!」

背後から姿を現した大男の一言によって矢的は冷静さを取り戻してしまった。
申組の隊長といえば何ものにも靡かない厳格な男で有名だ。多麻を見下ろす男の目つきからも、動かざる山のような芯の強さが感じ取れた。これは諦めるしかない。逃げようと一瞬でも怪しい行動をとれば、その腰に差した刀で即座に四肢を断たれかねない。

「お前のしたことはただの自己満足にすぎない。称える者がどれだけいようと、我々は規則のもとに罰する」
「ええ、理解しております」

縄をかけられた多麻はそのまま申組が管理する獄舎へ。夕暮れの町は頭を抱える人で溢れかえっており、
誰も彼も自分の身を案じるので精一杯であったために多麻が注目されることはなかった。
町のはずれにあるあばら家のような木造の小屋に、木の格子戸がはめられた簡素な作りの獄。
矢的が牢の鍵を開ける間、多麻は興味深そうに獄舎を眺めていた。

「牢獄というのはこのような作りになっていますのね」
「ふん。珍しいか?だがな、これからは飽きるほど居てもらうことになるからな」
「それは退屈そうですわね…たまにお話し相手になってくださいませんか?」

口では多麻に敵わないと悟ったのか、格子戸を開け多麻を中に押し込めると矢的はチッと舌打ちをして去っていった。
ぺたん、とむき出しの地べたに足を抱えるようにして座り込んだ多麻は、ふと視線を右に向けた。

「あら、先客がいらっしゃいましたのね」
「…」

暗がりに浮かぶ一人の男の姿。牢の端でこちらに背を向け、腕を枕代わりにして横たわっている。
飢えても死ぬことはないのだから生きているはずだが、深い眠りについているのか
男は多麻が入ってこようが話しかけようが一切反応を見せない。
それからしばらくして、

ドン…ッ!

と突然、何か巨大なモノが地上に落ちたかのような轟音がした。
とともに、泣き叫ぶ人の声、ドン…ドン…という地響きが伝わってくる。
異常なことが起こっている。多麻は久しく恐怖というものを忘れていたが、ごくりと唾をのんだ。

「今回はずいぶん派手にやってるな」
「あなた…やっと起きたの?」

上半身を起こした男が頭をぽりぽり掻きながら気怠そうに声を発した。
まだ視界がはっきりしないのか、二、三度ゆっくり目を閉じたり開いたりしている。

「ワタクシは多麻と申します、あなたは?」
「鳥喰だが…悪いが悠長に喋ってる暇はない」
「なんですの?」

鳥喰が檻の外を指さした。地面からぷつ、ぷつと黒い物体が浮き出していく。
あれは間違いない。この世界で唯一の脅威となるもの、”塵”だ。
だが塵は建物の中まで入ってこない。こんなあばら家でも一応は安全圏のはず。

「この町は今、神の庇護から離れている。安全な場所なんかないぞ」
「まさか…!」

ひたひたと無数の塵が牢屋に近づいてくる。塵が建物内に侵入するなど聞いたことが無いが、今の状況は異常だ。
何が起こっても不思議ではない。そしてこの男だけが唯一状況を理解している、脱獄に協力することに躊躇いはなかった。多麻は裾に隠していた針金を取り出すと、それを牢の錠前の鍵穴に通す。
義賊などやっていれば、素早く開錠する術も身に着くものだ。カチャカチャ、と針金を器用に使いいとも容易く開錠してみせた。

「良い腕だな」
「お褒めにあずかり光栄ですが…これからどうするのです?」

鳥喰は数秒何もない天井を見つめた。
それから、

「俺の神器を探す」
「投獄された際に取り上げられましたの?それなら恐らく申組の詰所ですわね。案内しますわ」

するりと牢屋を抜け出すと、多麻は先行するように走り出した。
鳥喰の言った通り現在この町に安全な場所は無いようだ。大通りは大変な騒ぎになっていた。
逃げ惑うもの、立ち尽くすもの、泣き叫ぶもの。まるで地獄絵図だ。

「…酷い有様ですわね」

多麻にとってはただの立ち寄った町の1つに過ぎなかったが、この惨状を見て無表情でいられるほど冷淡ではない。
はたして背後の男はどんな表情をしているだろうか。まだ出会って間もないが、感傷的になる様は想像がつかない。

「おいまだか」
「あ、はい…この先ですわ。この通りを右に曲がったところに…」

ドン…ッ!

またあの地響き。
おもむろに顔を上げると、多麻は信じられない光景を目の当たりにした。
見上げるほど巨大な黒い塊、下のほうに尾のようなものが付いていてしきりに動いている。その姿はまるで―、

「猿…?」

手のようなもので器用に獲物を掴み、口らしきところへ放り込む。
こんな塵は見たことが無い。恐怖で足がすくむ。これ以上進めば見つかる。いや、他の塵と同じであれば既に感知されている可能性もある。

「鳥喰、ここは一度引き返して…」

多麻がそう言いかけたところで、

「貴様らッ!脱獄したのか!」
「!」

偶然にも通りかかった矢的に見つかってしまった。
憤慨した様子でこちらを睨み付けている。だが、多麻もここで引き下がるわけにはいかなかった。

「お待ちください、罰ならあとでいくらでも受けますわ。けれど今はあの巨大な塵から逃げなくては…」
「煩い黙れ!罪人の言葉など聞くか!」

彼の精神状態もまた他の住人と同様、正常な状態ではなかったのだ。住人を守らなくてはという責任感と巨大塵への恐怖。それらを抱え、今にも押しつぶされそうになっている。とても正常な判断を下せる状態ではない。
このままでは共倒れだ。なんとかせねばと焦る多麻、その横で鳥喰は矢的の顔をじっと見つめていた。

「なにか文句でもあるのか!?」
「それちょっと貸せ」

鳥喰が見ていたのは矢的が背負っている弓だった。珍しい形をしているため、恐らくは神器だろう。
神器とは神より授けられた唯一無二の力。他人に渡すなど自ら命を手放すと同等。当然矢的がそれを受け入れるはずも無く、

「ふざけるなッ!貴様自分の立場をわかっているのか!?」
「いちいち噛みつくな。早くしないとあれに喰われるぞ」

ハアハア、と息を荒げ憤る矢的。他人の神器を操るのは容易ではない。なぜなら神器とはそもそも、その者に一番合った形をしているからだ。
体格や筋肉量はもちろん、その者がもっとも扱い易いと想像した形を模して作られる。
もし本当に鳥喰が他人の神器を扱えるのであれば、この状況を変える糸口になりえたかもしれない。
だが、すでに遅かった。

バクンッ


―次の瞬間、多麻は巨大な黒い塊に喰われてしまった。


◆◆


「(ああ、ワタクシはここで消えるのですね…)」


虚無のような何もない空間を漂いながら、多麻は徐々に薄れゆく意識のなかで確信した。
闇に飲まれる感覚。少しずつ、ゆっくりと蝕まれていく。

『やめろ…やめてくれ…』

声が流れ込んでくる。苦しむような、もがくような、頼りなく漏れる男の声。

「(どうしてそんなに苦しそうなのですか?)」
『俺のせいだ…俺が…ああ、なんてことを…』

きっとこの男は心の底から後悔している。何度も、何度も謝罪を繰り返し、己を恥じている。
姿は見えないし表情も見えはしないが、多麻のなかに男の感情が直接流れ込んできて感じ取れる。
不安や焦燥、怒りや嘆き。こんなものをずっと一人で抱え込んでいたのだとしたら、狂ってしまわないほうがおかしい。

『すべては町のため…規則は守らねば…ああ、でもそれがこんなことに…本当に、申し訳ない…』

男にとっては、今すぐ喉を切り裂かれるほうがよほど楽だろう。
彼は堅実すぎたのだ。常人なら逃げ出すところで踏みとどまってしまった。
だから今も、この苦しみを自分への罰として受け入れてしまっている。

「(鳥喰、どうか彼を楽にしてあげてくださいませ)」

同じ苦痛を感じた多麻は心から願った。


―パンッ

短く何かが放たれる音とともに、閃光がこの空間を貫いた。
たちまち辺りは光に包まれ、多麻に流れ込んでいた渦を巻くような感情は消えていく。

『本当にすまなかった…ありがとう』

男が笑っている。表情は見えないが多麻はそう思った。
視界は徐々に元の世界を映し出していく。消えたかと思われた多麻の肉体も形を取り戻した。
しかしすべてが元通りとはいかず、眼前には燦燦たる光景が広がっていた。

「こいつが原因か」

鳥喰が手に掴んでいるのは見たことのある男の頭部だった。
この町の治安維持部隊、申組の隊長の首だ。髪をわしづかみにされているが、表情は驚くほど穏やかだ。

「どういうことだ…?なぜ塵の中から隊長が…いや、今はいい。貴様、隊長から手を離せ…」
「これはただの抜け殻だ。隊長の魂はあの化け物ごと吹き飛んだ」

猿の形をした塵が消えていること、鳥喰が矢的の神器である弓を持っていることから、だいたいの状況は把握できた。
先ほどの閃光は鳥喰が放った矢によるもの。そしてそれによって隊長が絶命したということだ。だがしかし、

「嘘だ…!神器は塵にしか効果が無い!!」

そう、人に使ったところでしばらく行動不能にするくらいのものだ。
隊長に効果があったのだと仮定すれば、結論は一つしかない。

「あいつはもう塵だった。なんでそうなったのかは知らんがな」
「う、嘘だ…隊長…が…ああああああ!」

矢的はその場に崩れるようにうずくまって悲痛な叫び声をあげた。
気が付けば夜は明け、朝焼けの空は茜色に染まっていた。


◆◆


申の町と鳥喰の過去を語り終え、多麻はゆっくり視線を上げた。
そこには衝撃のあまり固まってしまった少年、白奉鬼の姿が。

「ご感想は?」
「……え!?いや、その、なんて言ったらいいか…」

白奉鬼はなんとか言葉を絞りだそうとして頭の中を整理するが、考えがまとまらずあたふたとするばかりであった。
どうやら謎が解けるどころか、分からないことが増えてしまったようだ。
それもそのはず、語り部である多麻ですら、分からないことだらけなのだから。
隊長はなぜ塵になってしまったのか、塵とは何なのか、鳥喰は何者なのか。
そして、今起きている事態と関係があるのかどうかだ。

「その後、ワタクシはしつこく鳥喰のあとを追って退治屋に入りましたの。あの日のことを尋ねても、何一つ教えてはくださいませんでしたが…」
「そのころの申組は…今の様子だとバラバラになっちゃったんだよね」
「ええ。隊長の消滅にともない、部隊は支柱を失って離散。ただ一人残った矢的が後継になったと伺っています」

飛鳴小や櫃はその後加わった仲間だという。
鳥喰を許せないという理由もわかった。ああするほかに無かったとしても大切な人を目の前で失ったのだから、
やり場のない怒りを感じているのだろう。鳥喰に対してだけでなく、矢的自身にも。

「でも、最後の隊長の言葉は多麻たちに救われたから言ったんだと思うよ」
「そうなら良いとワタクシも思いますわ」

多麻はどこか寂しげにほほ笑んだ。
食堂が閉まるようなので、多麻と白奉鬼は二階の自室へと向かう。
角部屋の襖を開けると、そこには食事もとらず死んだように畳に横たわって寝ている鳥喰がいた。

「(なんでこの人は何もしてないのに一番疲れてるんだろう…)」

呆れ顔で短くため息をついた白奉鬼。

「明日こそは戌町に戻りましょう」

いつの間にやら布団を敷き終えた多麻が小声で囁くように言った。
一度、強くうなずく白奉鬼。狭い部屋に身を寄せるようにして、三人は眠りについた。