第二十七話「優しい鬼」

戌の町から始まった崩壊の波は、秒針のように次の町へ渡っていく。この針を戻すためのネジは、表側には無く、また地獄の底にも無い。あるのは狭間の世界だけ。その入り口は“鬼門”と呼ばれ、忌み嫌われている。なんの因果か名前に“鬼”を持つ少年が、不吉な風を巻き起こすカラスに跨がって、その方角へ向かっていた。

「次は丑の町か…。行ったこと無いけどどんな町なの?」

初めて降り立つ土地に、白奉鬼は声を弾ませる。羽を大きく広げて一定の高度を保ちながら飛んでいたカラスは、がくっと拍子抜けするように一瞬高度を落とした。

『おい。そんなもの今聞いてどうする。観光にでも行くつもりか』
「ごめんごめん…。ただ、知らない町がまだたくさんあるな、と思ってさ」

自分はこの世界を半分も知らないまま消えていくのかもしれない、そんな暗鬱とした気持ちが、心のなかに渦巻いていた。意味の無い質問だと自覚しながらも、気を紛らわしたかった。白奉鬼は、鳥喰のことだ、弱気になるなと一喝されるだろうと思ったが、

『普通の町だ。大衆の娯楽施設として、芝居小屋がある以外はな』
「え…っ!へ、へえ~」

意外にも答えが返ってきた。白奉鬼が戸惑うような態度をとると、鳥喰は

『別にお前を可哀想に思って答えた訳じゃないぞ。お前の質問には出来る限り答えろと、憑喪神に命令されているだけだ』

と付け足した。そういえば鳥喰は、こちらが尋ねると面倒臭そうな顔をしながらもきっちり答えてくれていたな、と白奉鬼は思い返す。

「そっか、鳥喰は憑喪神様の使い魔なんだよね。使い魔って、憑喪神様が消えちゃったらどうなるの?」
『御役御免だ。これでようやくゆっくり眠れる』

“眠る”というのが、一時的に体を休めるだけではなさそうな事は察しがついた。白奉鬼はフサフサとした障り心地の良い羽をぐいっと引っ張る。

『…使い魔にも痛覚はあるんだぞ』
「鳥喰が寝惚けたこと言うからさ。目を覚ましてあげようと思って」
『お前良い性格になったな』
「どういたしまして」

息を合わせるように、二人はにやりとした。
眼下に丑の町と思われる無数の光の粒が見え始め、鳥喰は降下する体勢に入る。白奉鬼も姿勢を低くしてそれに備えた。

『様子が変だ。丑の町の人間が見当たらない』

白奉鬼にはまだ遠くて分からないが、鳥喰の眼には町の細部が映っているようだ。町の灯りは家の前に下げられた提灯のもので、人が持つ提灯の灯りではなかった。

「もしかして皆家の中かな」
『だとしても見廻組まで巡回していないのはおかしいな。こいつはもしかすると…』

鳥喰が低い声で『やはりか』と呟いて視線を向けた先には、大門の屋根を止り木代わりにして休んでいる尾の長い黒鳥と、その鳥を撫でる人の姿。塵化した枯不花と多麻だった。

「鳥喰!あの塵は枯不花ちゃんなんだ…!助けなきゃ!」
『多麻は…それが狙いだろう。お前を足止めして闇喰の元へ行かせないことが』
「でも枯不花ちゃんを救えるのは僕しか居ないだろ!」

鳥喰はバタバタとわざと体を大きく揺らして白奉鬼を振り落とした。そして両足で獲物を捕まえるように白奉鬼を掴むと、

『俺には憑喪神に託された浄化の力がある。人の姿では他人の神器を介さなければ使えないが、この姿であれば枯不花を傷付けずに救い出せるはずだ。お前は早く狭間の世界へ行け!』

白奉鬼をやや強引に説得し、寅の町へと繋がる大門に向かって矢のごとく飛び出した。

「ちょっと!待ってよッ!一人で闘うつもり!?」
『…ああ。じゃあなクソガキ』

バンッ!
勢いで門扉が開け放たれ、鳥喰は暗い谷底のような常闇の道に、白奉鬼をぽーんと放り投げる。空中で成す術のない白奉鬼は、最後の足掻きで両手を伸ばす。伸ばした手の隙間から、カラスの鋭く刺すような冷たい眼孔が見えた。そして白奉鬼の体は、どこまでも、どこまでも落ちていった。


◆◆


常闇の道は外れてはいけない。道を外れれば、その先に待つのはこの世の汚泥を溜め込んだ地獄。ただ丑寅に股がる常闇の道だけは、少し違う場所へ繋がっていた。

「あれ…僕は…?」

目を覚ました白奉鬼はぼんやりと周囲を見回す。といっても視界に入るのは夜空に浮かぶ朧月と、一面に咲く彼岸花くらいだ。
何もない。恐怖も、喜びも、生も、死も。花や月があるだけ色彩に富んではいるが、生き物の気配がなく、白奉鬼がかつて目にしたあの真っ白で無機質な空間に似ていた。

「常闇の道を外れたのか…ここに闇喰様がいる…」

ゆっくりと立ちあがり、草花を掻き分けて当てもなく歩き出した。体が重い、重力が何倍にも増しているような居心地の悪さだ。それにどこまでも同じような景色が続いてるから、ちゃんと進めているのか分からなくなる。

「なんなんだここは…くそ…っ!」

最初に崩壊が起きた戌の町は今どうなっているだろう。亥の町は?子の町は?丑の町の住人は?鳥喰は枯不花を救えたのか?多麻は鳥喰と殺しあうのか?…様々な不安要素が気を散らして、考えがまとまらない。
早く闇喰を見つけて崩壊を止めなければ。だがどうやって止めれば良い?闇喰に懇願してどうにかしてもらうのか?

「考えても無駄だ。そんな事は誰にも出来ない」
「…?!」

真っ赤な川の対岸に、少年が立っていた。自分とまったく同じ顔、同じ声で、あわせ鏡のように対峙する。白奉鬼と違うのは、白い髪に黒い角が生えていること。

「お、鬼…」
「自分の姿を見てから言いなよ」

白奉鬼の額にも、白い角が生えている。なぜ白奉鬼だけがそのような変化を遂げるのか、鳥喰がカラスに変化した瞬間、その答えが見えた気がした。

「もう解ってるだろう?お前と俺は同じ、鬼と化した魔物。そして憑喪神の使い魔だ」
「僕が使い魔…?人間じゃ、ない…?」

震える手で額の角に触れる。こんなものは普通の人間には生えていない、当たり前のことだ。

「そもそもお前達は、人の器を与えられただけの屑に過ぎないんだよ。“あこの世界”は、本来魂が宿るはずのないモノに宿ってしまった、行き場のない可哀想な魂をしまっておく神の玩具箱だからな」
「う…そだ…みんなが人間じゃないなんて!」

誰の手も暖かくて、必死に生きていた。誰もが大切な人を想い、暮らしていた。その世界が何もかもがらくたで出来ていたなど、作り話にしても馬鹿げている。白奉鬼は鼻息を荒くしてずんずんと対岸へ向かって前進していく。

「お前の言っていることは、なにもかも出鱈目だ…!」
「そうか。じゃあお前は何を信じる?」

白奉鬼は足を止め、目の前の少年を睨む。彼はにっこりと、余裕の笑みを浮かべている。間近で見ると本当に瓜二つだった。これが現実なら、彼と自分はどういう関係なのだろう、と疑問に思う。

「…仲間だ。大切な僕の…」
「へえ、お前の仲間か。お前に正体を隠し続けた鳥喰や、裏切った多麻のことか?」

突然ガッと顔面を掴まれる。

「これを見てもまだそんなことが言えるのか?」
「…ッ!!」

視界を奪われ、見せつけられたのは、丑の町で別れた鳥喰と塵化した枯不花、二羽の巨大な鳥がぶつかり合う姿。鳥喰は傷付けずに浄化すると言っていたが、二羽は野生の獣が縄張りを奪い合うかのごとく、激しい争いを繰り広げていた。そしてとうとう、鳥喰が背後をとって首に噛み付く。ギャア!という鳴き声を上げて、噛まれた鳥はゆっくりと倒れていった。

「鳥喰…傷付けずに救えるって…」
「そんな方法はない。アイツはお前を裏切って邪魔物を排除しただけさ」

少年はそっと手を離した。そして白奉鬼に優しく微笑みかける。

「お前は俺と同じ、いや俺の一部と言った方が正しい。俺が切り離した良心、それがお前だ。良心とはつまり甘さだ。判断を鈍らせ、視野を狭くする癌。だから俺はお前を捨てたんだよ。なのに何で生きてるんだ?」
「……」

ああ、自分は要らない存在だったんだ。捨てられ、塵のように地の底を彷徨うだけの哀れな魂。そんな自分が誰かを信じ、世界を救うつもりでいたなんて滑稽だ。

「闇喰様、地上はまもなく闇に沈みますわ」

ハッとして振り返る。チリンと鈴を響かせて、彼岸花によく合う赤い着物を着た少女が、対岸からやってくる。

「多麻か。鳥喰はどうした?首を持ってくる約束だろう」
「あれはまだ地上で、ワタクシが操る塵と戦っていますわ。憑喪神から授かった浄化の力などとうに無くなっているのでしょう、浄化出来なければいずれ体力が尽きてワタクシの塵に喰われますわ」

うふふ、と愉しげに頬笑む多麻を、白奉鬼は無感情な目で見つめていた。そして、底無しの沼に沈んでいくようにゆっくりと目を閉じる。
再び目を開けると、先程とは違う、余裕のない焦りを滲ませた多麻の顔が目に入った。眼前には透明な糸がピンと張り、何かを縛り付けている。

「…?」

一瞬の出来事で何が起こったのか理解できなかったが、縛り付けていたものの正体はすぐに判明する。

「多麻。何のつもりだ、これは」
「捕まえたのですわ。悪い鬼を」

肉に食い込むほど強く縛り付けているにも関わらず、闇喰は顔色ひとつ変えない。

「多麻…僕たちを裏切ったんじゃ…?」
「ええ、裏切りましたわ。本当に闇喰様がこの世界をお救いくださるなら、ワタクシは協力を惜しまないつもりでしたから。ですが彼は…」

プツンっと糸は裁たれ、多麻は反動で後ろに倒れる。

「屑は屑箱に還る、それがお前達の救いだ」

何食わぬ顔で白奉鬼の隊服の襟を掴んで、首を締め上げるように持ち上げた。白奉鬼は「ううっ」と声を漏らしながらも必死に抵抗する。

「憑喪神に愛されていたとでも思っているのか?お前たちはただ道具として、弄ばれていただけだ。俺が哀れなお前たちを箱庭から解き放ってやろう」

片手で白奉鬼を持ち上げたまま、もう片方の手で懐から刀を取り出す。その切っ先を白奉鬼の喉元に突き付けた。白奉鬼は一度抵抗をやめ、自分の分身のような闇喰を見下ろす。

「闇喰…君は僕だ。誰かに必要とされたくて、誰かのためと言いながら自分の欲を満たすために生きてる…ちっぽけな生き物だ。本当はただ愛されたかったんじゃないのか?」
「…は?」

闇喰はぴくりと眉を動かした。何を馬鹿な、そう言いたげに。だが直後に、雷に打たれたかのような衝撃が白奉鬼と闇喰に走る。その激震に闇喰は手を離し、白奉鬼はバサッと地面に落とされる。

「な、なんだ…この記憶は…」

記憶を閉じ込めていた入れ物が壊れ、中から水が溢れ出すかのように、次々と記憶が映し出される。それはまだ、魂が二つに引き裂かれる前の記憶だった。


◆◆


ー僕は『それ』がとても得意だった。最初は小動物や野良犬を相手に訓練を重ね、一撃で急所を狙えるようになったら次は子供。そして自分より大きい相手も簡単に仕留めることが出来るようになった。母は『それ』をすると、とてもよく褒めてくれた。

<貴方は本当に素晴らしい子ね>

ー頬を撫で、優しく微笑んでくれた。相手が子供だと何故か大人は油断する。その一瞬の隙に胸に刃を突き立てる。僕の得意技だ。

<これからも母さんのために、たくさん人を殺してちょうだいね>

ーべっとりと血で汚れた刃を見て、母は幸せそうに言った。でも僕は『それ』が何の役に立つのかよく分からなかった。

<もうすぐよ。みんな死ねば、私の愛しいヒトが一番偉くなるの>

ー愛しいってなに?母さんは、僕のことが一番好きなんだよね?

<愛しているわ、使える道具として>

ー母は、いつもと変わらぬ笑顔で言った。
少しして、僕は町で、“鬼子”と呼ばれ始めた。僕を退治しようと大勢の大人が襲ってきた。手に刀や鉈を持ち、怖い顔をして追いかけてくる。
怖い。誰か助けて。だが僕には母しか居なかった。

母は『愛しいヒト』と一緒にいた。僕が大人たちに惨たらしく切り裂かれるのを、遠くから笑って眺めていた。

本当は、口にするのも嫌なくらい、人殺しなんてしたくなかった。母さんのために、あんなにたくさん殺したのに、どうして愛してくれなかったの?

ーああ、そうだね。僕が道具だから、人じゃないから、愛せなかったんだね。ごめんね母さん。

傷付いた僕の魂は憑喪神に拾われた。
憑喪神は消えそうな魂を拾っては、わざわざ名前を付けて“あこの世界”に閉じ込めている代わった神様だった。

「憑喪神様は、なぜ道具に名前を付けるのですか?」

いずれは魂が燃え尽きて黒い灰となり、塵となって“あこの匣”に落ちる羽虫のような存在に、人として生かす価値など無い。なのに憑喪神はまるで我が子のように、一人一人丁寧に、残り少ない命まで削って名前を付けていた。憑喪神は答えを口にはしなかったが、それはかつて母が自分には与えてくれなかった温もりだった。

どうして同じ道具なのに、魂の残滓でしかないあこの世界の住人だけが温もりを手に入れることが出来る?道具が愛されるなんて間違っている、奴等は地獄に落ちるべきだ!

「そうだよね?母さん…」


◆◆


長い夢から覚めた白奉鬼は、目の前にいる自分とそっくりな少年をじっと見つめた。弱い心が産み出した二人の鬼。

「ああ…そうだ、お前たちは間違っている!」

ふらふらと立ちあがり、再び剣を手にする闇喰。その刃を白奉鬼たちにではなく、朧月夜の空に向け大きく振る。すると空だと思っていた部分がひび割れ、積み木細工のようにボロボロと崩れだした。闇喰は狭間の世界ごと白奉鬼達を地獄に落とすつもりだ。

「っ…!」

どこにも逃げ場はない。出口は遥か上空にあり、羽でも生えない限り地上に戻ることは不可能だ。

『カアアッ!』

響き渡るカラスの鳴き声。まさかと思って振り返ると、一羽のカラスがこちらへ向かって飛んでくる。しかも背中には、白奉鬼が気がかりで仕方なかった少女を乗せて。

「鳥喰!?枯不花ちゃん…浄化できたの?」
『できると言ったろ。傷付けないと言ったのは嘘だが』

枯不花の首には微かに噛まれたような痕が残っていた。意識は失っているようだが、それ以外に目立った外傷はない。

「ごめん…僕てっきり…」
『気にするな。そういう演出をしろと多麻から言われていた』

え、と呆気にとられたような表情で、多麻に視線を移すと、すべての抗弁をねじ伏せるがごとく多麻はにこっと笑った。

『地上に戻るぞ、早く乗れ』

うん、と白奉鬼が手を伸ばした次の瞬間、闇喰が天高く飛びあがり、鳥喰に向かって斬りかかった。

「鳥喰…ああ、憑喪神が重宝していた道具か。行かせるか。お前たち全員地獄に叩き落としてやる」

目をギラつかせて、狩りを楽しむ猟師のように躙り寄っていく。

『ガアッ!』

咆哮。鳥喰が放った衝撃波は音とともに闇喰の体を貫いた。風穴の空いた体ではまともに動くことさえできない。

「く…ッそ!!体が…!」
『お前は憑喪神に刃向かってろくに力を与えられていなかったからな。弱りきった体はそのうち朽ち果てるだろう。地獄に落ちるのはお前一人きりだ』

同じ使い魔とは思えないほど圧倒的な力の差。それを見せつけられてもなお、よたよたと平衡感覚を失った体で追いかけてくる。

「鳥喰…僕はここに残る」
『あぁ?何言ってんだ』

全ての元凶となった闇喰を目の前に、怒りや憎しみは沸き起こらなかった。彼を見ていて感じるのは、自分を見るような辛さだけ。鳥喰はこの目で見極めろと言い、白奉鬼のなかでようやく結論が出たのだ。

「闇喰は僕の一部だから…。僕は僕自身も救うと決めたんだ。見捨ててはいけないよ」
『……そうか』

鳥喰はなんとなく予想はついていたかのような反応で、二人の少女を背に乗せて空高く舞い上がっていった。

「…馬鹿め、地獄行きを選ぶとはな」
「地獄には落ちないよ。こんな僕でも、愛情を向けてくれる人がいるんだ。闇喰、君にも」

白奉鬼はもう一人の自分を温かく抱きとめた。

「共にいこう。教えてあげるよ。僕が愛したみんなのこと、僕を愛してくれた人のことを」

闇喰は白奉鬼の中に、自分がどんなに求めても与えられることはなかった人の温もりを感じていた。やがて二つは一つになって、真っ暗な闇に輝く星のように、目映い光に包まれた-。


◆◆


あれから季節が一巡りした後-。
一年前、あこの世界は一度滅びかけた。十二の町のほとんどが崩落し、地上にはもはや絶望しかないと誰もが諦めかけたのだが、奇跡が起こり、町は一瞬にして元の姿に戻った。戻ったのは町の姿だけではない。崩落に巻き込まれた者や、かつて行方不明になった者まで復活して人々に衝撃を与え、神様が時計の針を戻したという御伽噺が作られたほどだった。
そんな奇跡の夜明けにもう一つ語られているのが、東の空に巨大なカラスを見たという話だ。その話には、カラスは太陽に焼かれて死んでしまったとさ、というオチまで付いているそうだ。

戌の町ではまた、御霊祭りの季節を迎えていた。

「有坂隊長」

とある屋敷を訪れた髭面の男が屋敷の住人に呼び掛ける。すると中から、紺色の着物を着たやや頬のこけた男が顔を出す。

「天守か…私はもう隊長ではないのだから、その呼び方は止めてくれないか?」
「露骨に嫌そうな顔すんな。俺のなかではアンタは永遠に隊長なんだよ。他の連中に天守隊長とか呼ばれると鳥肌が立ってしょうがねえ」

天守は戌組の隊長になっていた。有坂が抜け、隊長候補であった扇規も不在。困った隊員たちが、謹慎処分を食らっていた天守のもとへ、隊長になってくれと切羽詰まって押し寄せたのだ。本人は嫌がっているが、新体制の戌組はなかなかに好評のようだ。

「知ってるか?この一年で亥の町の医療技術は、神業と呼ばれるまで発達したんだ。塵が出なくなっても怪我はするからなぁ」

無遠慮に縁側にどかっと座り込んだ天守は、背を向けて文机に向かった有坂に話しかける。

「…扇規が目を覚ましたぞ」
「!」

その名を聞いた途端、有坂の目に光が宿った。ガタッと机を揺らして立ちあがり、バタバタと支度を始める。

「私はしばらくここを離れる。あと次からは要件は簡潔に言え。命令だ、いいな」
「…へいへい。って、結局命令してんじゃねえか」

走り去っていく有坂の背中を見送り、天守はフッと笑った。たまには休暇を取って、隣の町に観光でも行くか、などと妄想に耽りながら。


◇◇


ところ変わって御霊神社。祭りの前だというのに、観光客も少なく閑散としている。それもそのはず、去年あのような惨事となり、今年も何かあるのではと警戒しているのだ。気にしないのは変り者か、最近あこの世界に入ったばかりの新参者だけだ。

「空いてるっすねー。ま、その方が依り代届けやすいし良いっすけど!去年なんて酷かったっすもん」

子供のように祭りにはしゃぐ櫃。酉の町で枯不花と合流し、共にこの御霊祭りを見物しに訪れていた。二人の声を聞き付けて、神主の交寿が数人の巫女とともに現れる。

「櫃、枯不花。来てくれて感謝するぞ」
「交寿さん…」

物憂げに目線をそらし、人形をぎゅっと強く抱き締める枯不花。交寿は眉を寄せ、哀しげに見つめた。

「また依り代を作ってきたのだな…。だが、宿る神が居ないのでは神降しも出来ぬ」
「良いんです…私が…祈りたいだけ…なので…」

塵も障りも消えた今、枯不花の治癒師としての役割は失われた。憬佳のもとで薬屋を手伝いつつ、手製の人形や小物を売って生活している。

「本当に神様居なくなっちゃったんすか?」
「…ああ。憑喪神様は死んだ。それは間違いない。あのお方の加護が感じられないからな」

奇跡的に町が元に戻ったあとも、本殿だけは潰れたままになっていた。それが何を意味するのか、なぜあの日以降塵が顕れなくなったのか、交寿は考え続けている。

「憑喪神だけが唯一神とでも思うておるのか?」

この古風なしゃべり方、そして声を聞くだけでも分かる傍若無人な性格の持ち主は-、

「琴江さん!」
「ん?お前さんは…陸、じゃったかのう?」
「櫃っす!ずっと探してたんすよ!どこ行ってたんすか!」
「キャンキャン吠えるでない。ちと捕まったり死んだり生き返ったりしておったのじゃ」

櫃は「何すかそれ?」と呆れ顔。

「琴江…憑喪神様以外も、神がいるというのか?」

交寿は疑うような目で見つめる。だが確かに感じていた、琴江から憑喪神とは異なる存在の力を。まだ弱々しく不安定だが、琴江に再び神降しの巫女の力を与えている。

「ふふん、それはあやつに聞いてみるがよかろう」

桜舞う参道を歩いてやってくる人影が二つ。背の高い男と、可愛らしい少女。交寿は男の方を睨む。

「お前も生きていたとはな。羽を焼かれて死んだと聞いたぞ、鳥喰」
「ああ。実際死にかけたからな」

鳥喰はあっけらかんとして言った。この一年間姿を現さなかった鳥喰と琴江は、訳知り顔で顔を見合わせていた。

「多麻さんはいつから知ってたんすか?鳥喰さんが戻ってきてたこと」
「つい先刻ですわ。この男ときたら、茶屋で悠々とお茶を啜っていましのよ?この一年、孤独にもワタクシ一人で退治屋を続けていましたのに。以前と違って、退治するのは害虫や悪漢ですけれど」

多麻は鳥喰に向けて冷ややかな視線を送った。

「悪いが本当に死にかけてたんだぞ」
「…まあ良いですけれど。そもそも憑喪神様が消えたら、御役御免ではありませんでしたの?」

鳥喰は気まずそうに頭をぽりぽりと掻いて、

「そのつもりだったんだが…新しい雇い主が見つかったんでな。契約続行だ」
「新しい…雇い主?」
「ああ。まだガキだがな」

枯不花は首をかしげる。直後に「もしかして…!」と顔を煌めかせた。

「元気…ですか?ご飯は?着るものは?どうやったら、会えますか…?」
「おお…落ち着け、枯不花。アイツは元気だ。余計生意気になったが」

普段は大人しい枯不花が珍しく興奮ぎみに詰めより、質問攻めにする。

「会うのは…難しいだろう。アイツはもう、俺たちとは別次元の存在だからな」
「そう…ですか…」

枯不花は残念そうにしょんぼりと視線を落とす。すると鳥喰の脳内に、直接響き渡るような少年の声が、かつてのように文句を垂れる。面倒くさそうに頬を掻きながら、その言葉を伝えた。

「まあ、目には見えないが、いつでもこの世界を見守ってるぞ」
「…いつでも…側に…」

そう呟いて、枯不花は真っ青な空を見上げた。

「私も、いつも貴方を想っています…」

天に向け、晴れやかな笑顔を浮かべた。まるで、微笑み返すかのように、温かい日差しと、爽やかな風が吹き抜ける。

世界は変わった。それはほんのわずかな変化だ。あこの匣はまだこの世界の底に存在する。ただそこは、絶望の縁ではなくなった。人々は、いずれ魂が朽ち果てて、あこの匣に堕ち、優しい鬼に出逢うだろう。その鬼はすべての哀しみや憎しみを抱きとめて、受け入れる。本当の温もりを知った鬼は、闇のなかに居ても決して闇に染まることはない。心の内に、光を宿しているのだからー。

 

(終)