第一話「あこの世界」

体を真っ二つに引き裂かれたような激しい痛みと感覚に襲われ、少年はハッと目を覚ました。

「ハァ、ハァ…」

心臓はドクドクと音を立て、顔からは血の気が引いている。
慌てて両手でぺたぺたと体を触り確認すると、胴体は無事繋がっていた。
とりあえずはホッと胸をなでおろし、心を落ち着かせる。

「ようやくお目覚めだね、どうだい気分は?」

真っ白な何もない空間に、どこからともなく響き渡る何者かの声。
少年は目を丸くして、きょろきょろと辺りを見回した。

「ははっ、まだ戸惑っているようだね。けれど君がこの状況に慣れるのを待っている時間は残念ながら無いんだ。単刀直入に言わせてもらうと、ここは“あの世”だ」
「は…?」

思いがけない一言に少年は口をぽかんと開けたまま何もない宙を見つめた。
少年の動揺など意に介さず、姿の見えない謎の声はさらに続ける。

「分かるよね?“あの世”、つまり死後の世界のことだ。そしてその世界にいるということは、君も既に死んでしまっていることになる」
「死んでる…?僕が?」
「受け入れられないかい?」

少年は首を一回だけ縦に振った。
今もこうして床にへたり込んでいる自分が、実は死んでいるだなんて到底受け入れられない。これは悪い夢、きっとそうだ。

「でも事実だ。間違いなく、君は死んでいる。ああ、証拠がないって?それなら…」

背筋が凍るような悪寒。次の瞬間―、

「ぐ…あッ…」

突然地面から現れた巨大な斧が勢いよく少年の右腕をさらっていった。
腕は10メートルほど遠くへ飛び、数回バウンドしてからもしばらく転がり続け、そのうち勢いがなくなってピタリと止まった。片腕が無くなったことと斧の衝撃で体はバランスを崩し、少年は真横に倒れ込んだ。そのまま放心状態となり、寝ころんだまま遠くに転がった腕をじっとみつめる。

「ほらね、血も出ないし痛みも無いだろう?これが君が死んでいるという証拠さ」
「……ッ!」
「おや、イタズラが過ぎたようだね。安心してよ、腕はちゃんと元通りになるから」

声に悪びれた様子は全くない。それどころか、笑っているような気さえする。
だが確かに痛みも出血もなかった。右腕の切断面は影を落としたように黒くなっていて中は何も見えない。嗅覚や聴覚は機能しているのに痛覚がないのはとても不思議な気分だった。

「さて。説明はこのくらいにして、名残惜しいがお別れだ」

何もない白い空間は突然天井からボロボロと崩れ始めた。崩れ落ちた部分からは体の切断面と同じ暗闇がのぞいている。
少年はこの状況に為すすべもなく、横たわったまま呆然と天井を見上げている。

「ああいけない、忘れるところだったよ。君の名前は“白奉鬼(しぶき)”だ。名前は存在そのものだ、大事にしなよ」

何もない真っ白な世界は一瞬にして真っ黒な世界へと変貌していった。
意識は徐々に遠のいていき、体とともに黒い海へと沈んでいった…。


◆◆


「…か!?生きてるか!おい!」

体を強く揺さぶられ、白奉鬼は再び意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開くと、ぼんやり見知らぬ男の顔が浮かんできた。

「…死んで…ます…」
「へ?」

白奉鬼の第一声に、男は一瞬あっけにとられたが次の瞬間ぷっと吹き出した。

「ああそうだな!オレ達はもう死んでるんだったな」

ケラケラと声に出して笑う若い男。そんな男をしり目に、まだぼんやりとした目をこすりながら白奉鬼は体を起こした。男は整った顔立ちに和装だが金髪碧眼という、町ですれ違ったら思わず二度見してしまいそうな派手な出で立ちだ。幸い辺りに人気はなく、注目されることはなかった。

「あの、ここが死後の世界って本当ですか」
「本当も何も、そうとしか考えられねえだろ?お前だってさっき派手な歓迎を受けたはずだ」

嫌なことを思い出させないでくれ、と言わんばかりに白奉鬼は顔を曇らせた。だが確かにそうとしか考えられない。先ほど吹き飛ばされた片腕は何事もなかったかのように右肩にくっついているし、一緒に切り飛ばされた着物の袖は継ぎ目もなく元通りだ。

「死んだ覚えなんか無い…」
「そういうヤツはよくいるさ。わけもわからず死んじまって、気付いたらあの世ってな」

男はどこか寂しげな表情を浮かべた。

周囲は閑散としていて時折風に揺られて木々や道端の草花が揺れるのみ。天国と呼ぶにはあまりにも平凡な風景に、白奉鬼はいまだに実感が得られずにいる。生前の記憶すら、今となってはぼんやりとしか思い出せないが、なぜか死とは無縁の生活を送っていたような気がしていた。

「まあそのうち慣れるから安心しな。せっかく天国に来たんだからよ、楽しまなきゃ損だろ?」
「はあ…」

男のやや強引な態度に引き気味になりつつ、そうかもしれない、とも思い始めていた。
そもそもここがどんな世界であれ、自分にはどうすることも出来ないのだから受け入れる他に道はない。

「オレの名前は二木(ふたつき)だ、よろしくな新人さん」

ニカッと笑って手を差し出す二木という男。白奉鬼はためらいがちにその手を握り返した。

「白奉鬼、です」

言い慣れない自分の名前に少しどもってしまう。新しい世界、新しい名前。皮膚と皮膚が触れ合う感覚。何から何まで新鮮で真新しく、この未知なる世界への好奇心は尽きない。あの白い空間ではとんだ目に合わされたが、感じるものすべてが五感を刺激するこの世界での生活はきっと楽しいことだろう。
白奉鬼は内心胸を躍らせながら、新しい一歩を踏み出した。


◆◆


二木の提案で町のなかを案内されることとなった白奉鬼は、人通りの多い大路を歩いていた。黒い瓦屋根のお屋敷が軒を連ね、町はにわかに活気づいている。

「すみません。ここにいる人たちって、みんな死んでるんですよね?」
「ああ当然な。それがどうかしたか?」
「いえ…」

すれ違う人、店先で世間話をする老人、はしゃぐ子供たち。どこを切り取っても死人とは思えなかった。今こうして二本の足で歩いている自分自身さえも。

 

「オレたちは天国に転生したんだ。屍とは違うさ」

「へえ…なんていうか、普通なんですね」
「天国に来たからって何かが劇的に変わるわけじゃないぜ。願えば何でも叶うような夢の空間でもない。みんな普通に暮らしてんのさ。だが普通平凡大いにけっこうじゃねえか。それが幸せってもんだろ?」

この光景は少し期待外れではあったが、二木の言う通りだと思った。
“幸せ”とは何か、なんて考えてもわからないが少なくともここにいる人たちは満ち足りた笑顔を浮かべている。もう既に死んでいるのだから“死”という避けられない不幸を迎えることもない。皆がいつまでも幸福に暮らすことができるのだ。まさに理想郷じゃないか。

「本当に天国なんですね」
「おいおい、まだ疑ってたのかよ?だから言っただろ、ここは天国だって。オレってそんなに嘘つきに見えるか?」

わざとらしく肩をすくめ、冗談交じりに言う二木。白奉鬼が「ちょっとだけ」と答えると脇腹辺りを軽くこづいてまた気取らない笑みを浮かべた。
そんなたわいもない会話を続けながら大路を進んでいると、ふとある看板が目にとまった。路地裏の入口に立てかけられた木製の看板。そこには、

“塵<じん>に注意!!”

と赤字で大げさに書かれている。

「これってどういう意味ですか?」
「ん?ああ、塵っていうのはこの世界に出る動物だよ。たまに出るけど害はないから大丈夫だ」

そういって二木はふいっと顔を背けて再び歩き出した。
白奉鬼はわざわざ“注意!!”と書かれている事に少し引っ掛かりを覚えたが、それ以上深く考えることなく二木のあとを追うようにその場を後にした。

その後も二木に町のことを教わりながらあちこちを見て回った。
町の中心にそびえたつ大きな社は“みたま神社”といい、男子禁制であること。町の治安維持部隊には決して刃向ってはいけないこと。食事は町のはずれにある“つくも茶屋”がおすすめであること、などだ。

またこの世界についても重要なことを教わった。死ぬことはないが飢えは感じる、つまり食事が必要ということだ。睡眠もある程度取らなければまともに動くことはできない。
切り傷や擦り傷程度なら数日で元通りだが、腕を切り落とされたり胴体を真っ二つにされた場合は治癒師(この世界の医者)に診てもらう必要がある。あの派手な歓迎のあと、腕も袖も元通りになることを、人々は“神の御業”と呼ぶらしい。それ以外ではそこまで完璧に元通りになることはまず無いのだとか。
町を半周ほどしたところで日も暮れ始め、二木がふと足をとめた。

「さっきも言ったが、この世界は天国とはいえ生活は自力でしなきゃならねえ。腹もすくし寝床も必要だ。オレにお前を養うだけの生活力があれば良かったんだが…な」

そういって二木は申し訳なさそうに白奉鬼をみつめる。白奉鬼は慌てて首を横に振った。

「十分親切にしてもらいましたから、気にしないでください」
「わりーな…せめて今日くらいはオレが借りてる宿に泊まっていけよ」
「いいんですか?」

二木はふっとほほ笑むと、白奉鬼の肩に手を置いて

「いいんだよ。オレだって、右も左もわかんねえときに人から色々助けてもらったことがあるんだ。これはその…恩返しなのさ」
「ありがとうございます」

久しく人の優しさに触れた気がした白奉鬼は、泣きそうになるのをこらえつつ感謝を伝えた。夕日が世界を赤く染め上げ、気付けば通りを賑わしていた人々の姿は消えていた。伸びる影と少しずつ近づく夜の闇に心がザワつく。
二人は急かされるように宿へと駆けこんだ。


◆◆


ガラリと引き戸を開けると、中は思いのほか静かだった。古く軋んだ床は老舗のような風格を漂わせ、障子はところどころ虫に食われている。先にいた数人の宿泊客が受付を済ませて次々と二階へあがっていった。二木が慣れた様子で近づくと、あまり感じのよくない老婆が帳場から顔をのぞかせた。

「よう婆さん。今日も頼むよ」
「あいよ。そっちもかい?」

老婆は二木の後ろに立っていた白奉鬼を指差す。

「いや、こいつは一番良い部屋に通してやってくれ。今日は色々あって疲れてるだろうし、朝までゆっくり寝かせてやりたいんだ」

そこまでしてもらうわけにはいかないと、白奉鬼が口を開きかけたが、二木に頭をわしわしと撫でられその機会を失った。老婆は何も言わずこくりと一回だけ頷くと、番号の書いてある札を二つ手渡した。

「お前の部屋は一階だな。疲れてんだ、飯食って早めに休めよ」
「はい」

ひらひらと手を振って、二木は二階へと続く階段を上がって行った。
白奉鬼は札に書かれた番号と同じ部屋を見つけると、ためらいがちに襖を開けた。
中はほんのりお香の匂いが漂い、十四畳ほどのがらんとした空間が広がっていた。
“一番良い部屋”と言っていたが、それほど高級感はない。

「…食事をお持ちしました」

先ほどの老婆が現れ、お盆に乗せた料理を台の上におき、目も合わせず去って行った。台の上には大盛りの白米、味噌汁、焼き魚、お浸しが並んでいる。

「…?」

なぜか急にめまいがしてその場にしゃがみこんだ。

「疲れてるのか…?」

視界はぼやけ、体の力が抜けて立っていられなくなりその場に膝を折った。
これでは食事どころではない。せっかく出されたものを残すのは忍びなかったが、体を横にしてしばしまどろむことにした。

 

夢か現か、まどろみの中で声が聞こえる。

「…悪いな、これがオレの仕事なんだ」

その声の主は、自分を恥じるように呟いた。朦朧とする意識の中見たものは、暗がりに浮かび上がる金色の髪。そして寝ころんだ状態から白奉鬼の体は物のように運ばれ、宿を出て、野ざらしの巨大な檻に投げ込まれた。

「…っ!」

足や腕に力を入れようと試みたが、その命令を拒むかのように手足はだらんと床に垂れ下っている。その上、次々と檻に人が投げ込まれ、逃げ道を塞いでいった。

「なん、だ…?」

やっと暗闇に慣れ始めた目で周囲の状況をとらえる。檻の中には老若男女十数人が閉じ込められていて、驚くことに白奉鬼意外は置き物のようにピクリとも動かない。自分たちはすでに死んでいるのだから、単に眠っているだけなのだろうが、この状況で目を覚まさないなどあり得ない。異様な光景に白奉鬼の心臓だけが、バクバクと激しく鳴っていた。

「さあ、今宵も始めましょう!神聖なる夜の宴を!」

檻の前で両手を広げ、天を仰いで宣言する謎の男。全身を黒で覆い尽くし、顔の上半分は面で隠れている。男の声は声帯がつぶれているかのようにしゃがれている。

「おお神よ、夜の闇よりなお深きものよ…この者たちの魂、存分に喰らってくだされ!」

しゃがれ声の男は全身をプルプルと震わせて喜びをあらわにしている。するとその声に呼応するように、地面から黒い物体がぽつぽつと芽を出す。それらはしだいに首のない人のような形を形成し、ずるずると足を引きずるような動作でゆっくりとこちらへ近づいてきた。

「(このままじゃ、喰われる…!!)」

黒い物体が何なのか白奉鬼には見当もつかなかったが、触れてはいけないものだということは、本能的に察知できた。逃げなければ。なおも必死に体を動かそうと試みるが、その努力は無意味だった。どんなに力を入れようと、動くのは首から上のみ。首から下は人形のように力無く垂れ下っている。

「おや?そこの少年、クスリがきちんと効いていませんね?これはいけない。彼を運んで来た者に罰を与えなくては」

白奉鬼の動きを目の端でとらえた男がゆっくりと檻に近付いてくる。
あごを摩りながら、男は深くため息をついた。

「逃げようなどと思ってはいけませんよ。これは深淵へと至る崇高な儀式、そして貴方がたは選ばれし者なのです。誇っていい、むしろ光栄に思ってください」

男の口元に笑みが浮かぶ。
そうこうしているうちにも、黒い物体はこぞって檻へと集まってくる。
最後の望みをたくして、白奉鬼は大きく息を吸った。

「だれか…!だれか助けてください!」

周囲に人の気配はない。ただ夜の静寂が町を包み込んでいる。
白奉鬼の叫びは虚しく響き渡った。

「馬鹿ですねえ。助けなど来るはずもない、なぜなら夜は“闇喰(くらはみ)様”とそれを慕う者しか自由に歩くことは叶わないのですから」

ふと男は、背後に気配を感じて振りかえった。

「そりゃ残念だったな」
「!?」

驚嘆の声をあげる間もなく、しゃがれ声の男の首は撥ねられた。
すぽんと外れた首はそのまま地面に転がってなおパクパクと口を動かしている。司令塔を無くした胴体はふらふらと揺れて、やがて棒のように倒れた。その様子をまるで壊れた人形でも見るかのように淡々と眺めていた長身の男は、あくびをして眠たそうに目をこすった。

「あー…終わった。ねみー…」
「ま、待って!」

突然去っていこうとする男を慌てて呼びとめる。その声に気付いた男は、ぴたりと足を止めた。そしてくるりと向きを変え、こちらへ向かってくる。

「そうだった、首を持って帰らねえとな…」

よいしょ、と膝を折ってしゃがみ、地面に転がった首を無造作に持ち上げて袋に詰めだす男。落とした果物でも拾うかのような手つきで、顔色一つ変えない男に唖然としたが、作業を終えて再び去っていこうとする男に白奉鬼は慌てて声をかけた。

「じゃなくて!助けに来たんじゃないの!?」
「え…」

男は寝耳に水、そんなことは考えもしなかったという表情だ。
そして先ほどの気だるげな表情と一変して今度は真剣な眼差しで答えた。

「無理だな。あの黒いヤツに喰われると俺達は消えるんだ。あれが近づく前に体の動かないお前らを運ぶなんて無謀なこと、やってられん」
「そんな…」

白奉鬼は再び希望を断たれて絶句した。あの黒い物体はもう檻のすぐそばまで来ている。

「…だが、お前一人なら助けられるかもな」

男がボソッと呟いた。檻に近付くと持っていた刀を振りかざし、勢いよく振りおろす。ガキンッという音とともに檻にかかっていた鍵が外された。
男は檻の入口に立って目を細める。白奉鬼と男の間には2メートルほど距離があり、間には人間が重箱に入ったおかずのように敷き詰められている。
そんな遠くからどうするのか、白奉鬼が固唾を飲んで見守っていると、男は檻の入口付近から腰に差していた鞘を白奉鬼の顔に向けて差し出した。

「選べ。このまま消えるか、死ぬ気でこいつを掴むか」

手はぴくりとも動かず、差し出された唯一の希望を掴むことはできない。ならば消えるしかないのか?ここで消えるわけにはいかない、そんな使命感にも似た感情が、その選択肢を拒む。ならばと白奉鬼は口を大きく開け、思い切り鞘に食らいついた。

「無様だが悪くない」

男は鞘を白奉鬼ごと引っ張り上げた。そのままずるずると引きずられて檻から離された。檻から数十メートル離れたところで男はようやく立ち止り、疲れ果てた白奉鬼も鞘から口を離した。地面に転がった状態から男を見上げると、黒い物体に埋め尽くされた檻を一点に見つめていた。

飢えた獣のように檻に残った者たちを貪る黒い物体。
頭部が無いのにどうやって喰っているのか、ここからではよく見えない。白奉鬼はふと、あることに気付く。

「あ、歯が欠けてる…」

食らいついた鞘にはその必死さを物語るように、白奉鬼の歯型がついている。
そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、隣で男はあくびをした。
この世界に死は無い。欠けた歯もきっと治せるだろう。死を超越した“消滅”さえしなければ。

夜が明け、世界は眩い光に照らし出されていく。その光から逃げるように、黒い物体は姿を消していった。
しかし日が落ちればまたあの夜はやってくる。この世界はなんなのだろう、この世界で自分たちは何をすればいいんだろう。


多くを犠牲にして生き残った白奉鬼は必ずやその答えに辿り着くと、からっぽになった檻に誓うのであった…。